- 2006年1月22日 00:42
- バングラデシュの用語ミニ辞典
ボンゴボンドゥ(ボンゴ=バングラデシュ、ボンドゥ=友)の名で、称えられる、シェーク・ムジブル・
ラーマン。アワミリーグ党首シェーク・ハシナの父親でもあります。
彼の人生は、バングラデシュの歴史と共にあるといってよいでしょう。
1920年、3月17日、ゴパルゴンジのトゥンディポラという村に生まれました。彼の父親は、 ゴパルゴンジの民事裁判所の裁判官(当時の階級がちょっと不明なので、あるいは職員かもしれません)だったようです。
カルカッタの名門、イスラミア大学に入学、大学連盟の書記長に選ばれます。このころから、 リーダーとしての才覚を発揮していたのですね。
彼の具体的な政治生命は、1949年アワミ・ スラム教徒連盟の共同秘書としての選挙参加からスタートします。が、その一方で政治犯として拘留されるなどの側面も。 1953年には東のパキスタン・アワミ・イスラム教徒連盟の書記長に選ばれ、組織強化のために没頭し、1954年には国会デビュー、 1966年には党首となります。
彼は、有名な6項目要求(独自の通貨使用、政権の民主化などを含む東パキスタンの自治権要求) をパキスタン政府に突きつけました。この頃には、彼の影響力は国家的なものとなり、多くの人々を扇動し、現政権を揺さぶるほどになりました。 彼の力を恐れ、2回に渡って投獄しました。これがアガルタラ事件と呼ばれるものです。
が、彼が監獄の中にいようとも、彼に対する民衆の支持は強大なものとなり、民衆の反対によって、
政府は彼を解放せざるを得ない状況に追い込まれたのです。
解放後、民衆は彼にボンゴボンドゥの称号を与えました。
ムジーブは、のべ12年間の監獄生活の経験で、パキスタン支配下の10年間は、母国というよりも、 監獄のようであると感じ、1971年1月3日に、彼は東パキスタンの代表とラムナ公園で厳粛な式を執り行い、 6項目要求の考えに反しない宣言を行ないました。
3月7日ラムナ公園での演説を経て、25日の深夜の「この戦いは、われわれの救いのためであり、 自由のためである」に要約される、歴史的な演説によって、解放戦争の火蓋が切って落とされました。歴史の項で触れたように、この直後、 彼は再び投獄されるわけです。
彼が再びダッカの地を踏んだのは、1971年12月16日のバングラデッシュの解放後、 しばらくたった1972年1月10日のことでした。
独立後、彼と民衆を待っていたのは、過酷な現実でした。 飢えを始めとする何百万の問題が立ちはだかっていました。
治安状況を復活させるために、ロッキ・バヒニ(ロッキ=防衛、バヒニ=戦士)を組織しましたが、 この作戦は失敗に終わり(ロッキ・バヒニ自体も治安を悪化させるようなことをしたといわれる)、彼の支持率は激減しました。その後、 新しく政党を作り、政界を刷新しようとした彼でしたが、裏目に出るばかり。
軍事冒険者のグループは、彼の不安定な状況につけ込み、1975年8月15日、 彼とその一家を皆殺しにしました。
かろうじて2人の娘は、留学のため国外に滞在していたので、難を逃れたのです。そのうちの一人が、
シェーク・ハシナ党首でした。